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「韓国の新聞」日本、独島の侵奪を日露戦争前から準備していたdd

 日露戦争前の1903年、独島(日本名・竹島)侵奪の過程で日本陸海軍が島を測量し、不法編入に向けた準備作業を進めていた事実が初めて明らかにされた。



イ・サンフン陸軍士官学校軍事史学科教授は最近、「日本の防衛省アジア歴史資料センターの史料を調べる過程で、日本の軍部が日露戦争前にすでに独島の測量を行った事実を示す文書を確認した」と明らかにした。


イ教授がハンギョレに公開した史料は3種類。一つ目は、1903年9月21日に日本の軍艦済遠艦長の但馬惟孝が釜山に入港し、海軍省に報告した「1903年10月行動予定表」だ。前文によると、「本艦は10月 日出発、行動予定表に基づいて巡航するため予定表を送付する」という内容が記されている。予定表は10月3日に釜山をで出発して4日間鬱陵島(ウルルンド)を測量し、5日「リアンコルド」という日本式の海図名で表記された独島を測量した後、軍艦の高速力を試験する計画を明記している。実際に船は鬱陵島と独島を視察し、釜山に復帰した。同年10月9日、済遠艦長の但馬が釜山で「鬱陵島視察報告」を作成し、艦隊司令長官に報告した内容にこのような事実が記載された。詳細な視察内容は確認されていないが、地勢と錨地、民情と人口、物産、気候、交通、露艦(ロシア艦艇)巡視、郡守の面談などで構成され、鬱陵島・独島の地形とロシア軍艦の動向を把握することが目的だったことが分かる。イ教授は「この報告文を通じて、済遠が日露戦争勃発前の1903年10月に鬱陵島と独島を軍事目的で測量したことが確認される」とし、「行動予定表からも分かるように、1903年当時の軍部は独島が鬱陵島の付属島であることを認知していた」と説明した。



もう一つの根拠は、1903年10月1日に釜山駐箚(ちゅうさつ)隊長の下條英四郎が、後に初代朝鮮総督となる陸軍大臣の寺内正毅に送った報告文だ。文書の5つの事項のうち3番目の内容が注目される。報告文には「陸軍歩兵少尉山田伊三郎を10月3日から1週間の見込みで軍艦済遠に便乗させ鬱陵島の偵察に派遣」と書かれている。イ・サンフン教授はこの部分が1903年の済遠の鬱陵島・独島視察に陸軍が介入したことを示す部分だと指摘した。日本軍部が1903年に陸海軍の組織的な協力で韓国の海岸と陸路を広範囲に偵察し、この過程で得た軍事情報を基に戦争準備に乗り出したことを示しているということだ。


三つ目の根拠となる資料は、1903年6月16日に日本陸軍砲兵大尉の江口鎮白が「海軍大演習」を参観した後、第12師団長の井上光と当時の陸軍大臣に相次いで報告した内容だ。この報告文の中には「索敵運動要領附図」という海上作戦図が添付されているが、鬱陵島と独島が鮮明に表示されている。報告書の「索敵運動」とは、鬱陵島・独島・隠岐諸島をむすぶ沿線以南でロシア艦隊が北方のロシア沿海州の港に行く前にこれを見つける作戦を意味する日本式の軍事用語だ。日本連合艦隊は戦争に備えて1903年3~4月、大韓海峡と東海(トンヘ)で海上演習を行ったが、ロシア艦隊捜索訓練も同時に実施した。江口の報告文によると、1903年に東海の捜索訓練は竹邊(蔚珍)から鬱陵島までを1区域、鬱陵島から独島までを2区域、独島から隠岐までを3区域、隠岐から日本本土の松江までを4区域に分けて「包囲線」を形成している。イ教授は「訓練で指標となるのは鬱陵島と独島・隠岐島をつなぐ沿線」だとし「独島を測量し、地図上の座標を設定しなければ浮かばない構想」と説明した。



韓国の学界では日本の独島不法編入工作に関してはこれまで、1904年9月29日に島根県の漁師の中井養三郎がアシカ狩猟のための編入請願書を出したことを起点とみなしてきた。独島測量や軍事通信施設の設置も1904年の戦争勃発以降に始められたものと知られていた。しかし今回の史料の発見で、日本軍部は1904年の民間人の請願前から独島の位置と重要性を認知していたという事実が明らかになった。独島侵奪史を研究してきた東国大学のハン・チョルホ教授は「軍艦済遠が独島を日露戦争前に測量したというのは新たに知られた事実」だとし、「日本軍部が日露戦争前から独島の戦略的価値に注目し、不法編入を準備していたということを具体的に立証する史料」と評価した。


上記で韓国のメディアでコンテンツを繰り返しました。


日本の軍部が日露戦争前にすでに独島の測量を行った事実を示す文書を確認した当然。自分の領土ですから、測量してて当たり前。むしろ日本の領土である事が証明されたワケです。

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